しかしながら、それでもあらゆる生命は、この厳しい「自然」とともにある。
さればこそ神仏は「自然」に翻弄されるすべての「命」をあまねく西方浄土へと導く。
それを浅はかな浅知恵にて「我欲による天罰」などと言うのは「神仏」に対しても、「命」に対しても、もってのほか、である。
私の中での「鬼」の声は「現世」から「来世」にいかれる方々が最後に、届けよとばかりに残す「挨拶」、心のさけびである。それが慟哭となって響くのだと思っている。
その慟哭を、決して忘れないために、私はこれからも「鬼」を書き続ける。
いずれは私もそちらに行きます。待っててくださいね。 合掌